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猛暑と環境問題

2007.07.29 Sun

 ほんの少し前までは涼しい日々が続いていたと言うのにこの所は連日のように猛暑となっている。毎年、この時期はほぼ除湿のみで過ごしている私も今年ばかりはエアコンを冷房に設定し直している。帰宅してすぐに飲む一杯の水が何よりも美味しいと感じられるこの季節、休日のサラリーマン達や夏休みの学生諸君は涼しい映画館で娯楽作品を鑑賞するのもお決まりだ。

 映画館での公開はとうに終わってしまったが最近になって元アメリカ合衆国元副大統領のアル・ゴア氏が制作したドキュメンタリー映画『不都合な真実』のDVDが発売された。地球環境問題、とりわけ温暖化を中心として様々なデータと供にそれによる危機をゴア氏自らが強く訴えるこの作品は2005年に米国で猛威を振るったカテリーナなど最新のデータも多く取り入れられている。DVD限定となる特典映像では制作途中に新たに判明した事実やデータを編集して補足してくれている。パッケージに包装紙も環境に配慮した素材で作られている事も心憎い。

 作品で使われているデータにどれ程の信憑性があるかどうかは私は知る由もないわけだが、環境問題に対する危機感や意欲をもり立てる起爆剤として鑑賞するならば十二分の出来だと感じている。アメリカの政治家らしいジョークを交えたユニークなトークのおかげもあって飽きずに1時間半が過ぎる事だろう。この暑い日々、あえて冷房を使わない部屋でこの映画を視るのも面白いかもしれない。映画を見終わったらこの夏の目標として自分に何が出来るかを考えてみるのもよかろう。丁度先日、環境省のCO2削減キャンペーンが開始された事もあるし挑戦してみるのも悪くは無いかもしれない。

 環境問題は一人一人の努力が大切だ。とはいえそれだけではどうしようもない事もまた事実である。一人一人の努力が影響を与える事と同じくして国単位での努力や協力無くしては解決出来る問題ではない。南北格差の是正はもちろん、先進国が途上国に貸そうとする過剰な負担も問題だ。我々がこれだけ削減しようとするのだからお前達もそれに従えと言い放つのはあまりにも酷と言うもの、省エネルギーに取り組むにはお金がかかるのだ。先進国は率先して途上国が発展しかつ環境破壊を行なわないような技術を提供し、その為の資金を援助するべきだろう。既に自国の利益追求だけで発展出来る世界は過ぎている。

 季節はもう真夏。夏バテにならないように健康管理を充実させるのは当然大切だ。しかし、地球環境は年中真夏日になりつつある。自分の夏バテ対策と供に私たちの生活の場たる地球の夏バテ対策も思案してみるのもよかろう。私たちに恵みをもたらしてくれる地球に感謝を込めて冷房の設定温度を2度上げてみよう。それだけできっと何かが変わってくるはずだ。
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2007.04.06 Fri

 新聞にもお花見の記事が出てくる季節になった。日本人にとってこの桜という木はとても馴染み深く、庶民はもとより様々な著名人の中にも桜を愛でる者は多い。『国学の父』と呼ばれる江戸時代に生きた国学者の本居宣長もその一人である。彼は鈴屋と号した程の鈴好きで有名だがそれと同じくらい桜と歌も愛し、遺言には「自分の墓の周りには桜を植えよ」と残した程だ。

 風流人と言えば聞こえは良いが私の中での宣長は遊び人のイメージが強い。彼は学生時代医術を学び医者となるため京都で過ごした。京都での下宿生活を支えたのは地元の母親から送られてくる仕送りだった。しかし、大層な遊び好きだった宣長はその仕送りの殆ど送られてきたその日のうちに女遊びなどで散在してしまう事も珍しくなかったというエピソードもある。

 桜と同時に訪れる入学式シーズン。多くの学生達が新しい生活への期待を膨らませている頃だろう。しかし学生の中には高校受験や大学受験を乗り切った安心感で気が抜けてしまう者も少なくないと思う。宣長は遊び人ながらも無事に医者となり、また自分自身で国学という生涯打ち込める学問を見つける事に成功している。

 私は宣長に影響を受けたわけではないが学生時代にはよく遊びよく学んだ。勉学は勿論だが、遊びも大切だと思うからだ。遊びは心に余裕を持たせてくれる、自身の経験や学んだ事を発揮するにはその余裕が大切だと思うからだ。そんな私は遊びと勉学は両立出来るものだと考えている。忙しい中でも桜を見てほっと一息つける余裕は常に心の何処かに残しておきたい。

 学生に与えられた時間はそう多くはないから多くの事を効率よくこなす必要も出てこよう。一つ気をつけなければならないのは、学生時代を無駄にしない事だ。遊ぼうが学ぼうが好きな事をすれば良いと思う、事によっては退学をしても良いと思うがそれを後悔してはならないという事だ。心機一転、新しい事を始めるには良い季節だが桜の花と共に決意を散らせない事が肝要だ。花は散っても桜は枯れずに伸びているのだから。
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伊達政宗と抗菌グッズ

2006.09.26 Tue

今朝の読売新聞、『清潔』に対する意識と実態の食い違いについての記事が"くらし"の面に掲載されていた。アンケート調査によると8割の人が洗剤や台所用品等を購入の際に抗菌をうたい文句にする製品を購入しているが、その反面冷蔵庫の掃除は主夫で半年に一度という。つまり、清潔という価値観が人それぞれ独自に解釈されておりそこにちぐはぐが見え隠れするのだと言う。

私も綺麗好きな人間と思われがちだが、実はそうではない。私の綺麗好きは客人が訪れた場合に見栄を張ったり、といった対外的な事に起因するものだし、それを根気よく続けているのはただ私が非常に面倒臭がりだからとしか言いようがない。私は昔からものぐさな質であるから一度掃除をさぼってしまえば部屋が地獄のように汚くなったとしてもやる気をくじかれてそのままにしてしまうだろう。人が来た時に慌てて大掃除を敢行するのも面倒だ。そうならない為に気付いた場所を気付いた瞬間に掃除するようにしている。一度に大量の労力を消費するよりも体感しない程度の疲れを蓄積させる方が私には向いている。そんな私は年末の大掃除すら必要ない。

そんな私が人の家を訪ねた時に常々思っていたのは掃除の仕方が大味な事だ。目に見える所ばかりは美しいがふとした拍子に目の横を掠める場所は大概ひどいものだ。優秀な抗菌アイテムも基本的な掃除が隅々まで行き届かないでは意味がない。私が使っている一山いくらの特売洗剤と使い古したタオルの雑巾でいいじゃないか。

その昔、奥州の独眼竜伊達政宗公は屋敷の使用人の男が縁の下ばかりを熱心に掃除している様子を見て何をしているのかと尋ねた。それに対して男は見えない所こそ美しく掃除するのだと答えたが、公は呆れて見えない場所を見える場所よりも綺麗にしてどうするかと怒ったと言う。

何も使用人のように縁の下まで掃除を熱心にやれとは言わない。が、屋内ならば何処であれ縁の下と違って人の目につく事を忘れない方がいい。小学校の時には一日5分の掃除時間内に担当の掃除場所を隅々までみんなが熱心に掃除していた。毎日こつこつが清潔を保つ基本だ。たった一本のほうきとちりとり、一枚の雑巾を使うだけで見違える程部屋は美しくなる。最小限の労力で最大限の効果を。気をつけていれば年末大掃除も楽になるだろう。

政宗公は見えない所の掃除も大事だが見える場所の掃除も大切だという意味を込めて言った。抗菌グッズも大切かもしれないが、昔ながらの道具で出来る事が残っているはずだとは思わないか。
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愚痴と弱音とスーツ

2006.08.16 Wed

Boa Tarde!
近頃めっきり愚痴っぽくなってしまったサソです。

何かと悲しい話題が多い今日この頃。
私の周りではもっと悲しい話題が多そうです。
おかげで本当に愚痴っぽくなっております。

『歳をとると愚痴が増えて嫌ね』と近所のオバさんが口にするのを昔から変わらず耳にする。私自身も愚痴が増えているのは老け込んだ証ではないかとも思うがよくよく考えれば子供とて愚痴は言う。テストが嫌だとか、アルバイトが忙しくて遊びに行けないとか、喫茶店でコーヒーを飲んでいればそこら辺りから耳に入ってくる。

話は全然違うがポルトガルへ行く直前まで、暫く着流し姿で日常を過ごしていた。長い歴史の中、日本の気候風土に適して発展してきた着物は着付けこそ面倒がかかるものの慣れてしまえば洋服以上に過ごし易い。しかし、明治以来モーニングや詰め襟を始めとする礼装・軍装が徐々に日本に浸透し、今では普段着をも洋服を用いて生活している。

ところでその洋服。ことスーツと言えば日本でもすでにお決まりの仕事着だ。しかし、日本人が仕事着と決め込んでいるこのスーツもヨーロッパでは普段着として一家のパパ達は愛用している事が多い。我々が我々の普段着を年齢や自分の外見に合わせて着こなすのと同じく彼等も普段着たるスーツを自分に合わせて着こなしている、洒落た方を見れば、成る程と年相応の積み重ねがそのたたずまいから一目にして分かるものだ。

話を戻そう。人が常日頃抱えている悩みに大して違いはない。本人にとってはどれも立派な悩みで、それを誰かに愚痴ってやりたいと思う事に変わりは無い。違いがあるとすれば愚痴を言っている姿からにじみ出る雰囲気か。

弱音や愚痴を言う姿は私達が考えている以上にその人の内面を色濃く映し出すものだ。その人のそれまでの人生が、何気ない日常の愚痴を吐き出す姿に深みを与えるから年配の方の愚痴というものは印象に残るのではないだろうか。乱暴な言い方をすれば若者の愚痴には深みが無いという事。私がこのところ自覚するくらいに愚痴が増えたと感じるのも、実は愚痴を言う数が増えたのではなく、その愚痴が自分にすら印象に残る深みを持ってきたのだと考えると私も少しは大人になれたのかと何やら感慨深いものがある。

昔から弱音や愚痴を口にして悩む姿は『情けない』と『何処か艶っぽい』と極端にその印象を二分する。基本的には情けない愚痴を言う姿だが、上手く着こなせばフルオーダーのスーツのようにダンディズムを見せる事もできよう。『嫌だわ』と背中を丸める事なく、すっきりとした佇まいで毎日を送りたい。
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暗記と学問

2006.05.18 Thu

紙名は覚えていないが先日の新聞に暗記術こそが最強の勉強法だとして紹介されていた。そこには試験における暗記の重要性が説かれていたが私にはそれが一番の勉強法だとはとても思えなかった。

資格を得る上で確かに暗記術は有効だ。しかし、資格を取得したと言う事は専門職として最低限の能力を認められたと言う意味で大切なのはそこからどのようにして自分がプロとしてふさわしい人物になるのかであろう。暗記で得られたアイテムは自慢できない。それは分かり易く言えば知っていて当然の事でしかないからだ。

学生時代は法学部に在籍していた私は物事の暗記に関しては多少の自信がある。その経験は今の趣味での歴史学習に活かされている。だが年表を暗記しているからと言っても自慢にならないし、どれだけの判例や法律を記憶しているからと言っても同じく人に誇れるものではない。

確かに暗記は学習や学問において決して軽視できるものではない。暗記しなければ多くの試験には対応できないし、研究中や仕事中にわざわざ辞書を引いたりマニュアルに目を通してばかりでは実践的とは言えない。私は暗記を馬鹿にしているわけではなく、その記事を書いた人は『暗記は学習の最も基礎になるものであるから重視しなければならない』と紹介すべきだと言っている。

年号や事件名、法律に判例はそれぞれの専門分野にとっての一つのアイテムにしか過ぎない。そのアイテムを基礎知識の一つとして身につけ、更に応用が可能なように根源的に理解を深めてから初めて私たちは体系的な学問と向き合う事が出来る。暗記術とはその学問に向き合うのに必要なアイテムを一先ず表面上の事柄だけでも記憶に焼き付けると言う基礎中の基礎を得る為のスキルにしか過ぎないと言う事を彼はしっかりと述べるべきだったのだ。

人間の記憶力には限界があり膨大な資料を全て暗記する事は不可能となる。故に我々は辞書や資料を手元に置く。我々は自分達の知らない言葉や事柄を資料から読み取るのだが、その読み取りに使われるのが暗記によって覚えられた使用頻度の高いアイテムだ。基礎知識を土台としてより高度な資料を読み取ってそれを様々な実践や学習の中で磨かれた応用力と己の頭の中で体系立てられた理論によって形にするのが学問の一つの顔なのである。先ほどから繰り返すが私は暗記術や暗記によって得られた知識を軽視してはいない。暗記を含めて全ての道具は学問を構築する上で優劣をつける事は出来ず、全てが必須なのだ。

今、教育について議論が交わされているが勉学を誤解させるような発言は少々軽率ではなかろうか。私達は学問とは何かと言う問題に立ち返ってそこから教育とは何かを考え抜本的にそれらを見直す必要があるのだと強く感じている。
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